嵐が去って、青空が広がった北西部からこんばんは。
昨日は空がびょーびょー鳴るほどの風が吹いており、

250125

波立つ運河でゆらゆら揺れながら前進する水鳥。

さて。

先日、とある会議の事前資料としてワード文書が送られてきました。

最初のページを読んで違和感。
これはAIで作成された文書だとすぐにピンときたのでした。

なぜわかるのかというと、わたしも使っているからです。

当初、手塚治虫の代表作のひとつは『僕の地球を守って』だと言っていたChatGPTがどんどん賢くなって、今は仕事の相棒として十分用を足すようになりました。

ちょっと調べものとかエクセルシートのここをこうしたい、なんて時はすぐに解決してくれます。
検索エンジンで検索ワードを練りながら調べ、ウェブページへ飛んで、有用な情報なのかどうかを判断していた時とは効率が雲泥の差です。
日本語、英語訳もお手の物。
今もたまにしれっと適当なことをいう時があるので注意は必要なんですが。

ただ、AIが書いてくる文書ってみんな「癖のない癖」がある。
使っている方はわかると思うのですが。
なんというか滅菌処理されたのっぺりとした文書になるのです。

耳障りはいい、ふわっときれいに纏まっていてさらっと読める、プロフェッショナルでもある。
ただ、心にはひっかかってこないというか。

今日読んだ文書もまさにそれでした。
しかもところどころ矛盾してるしね。
さては推敲してないな。

仕事のメールは英語が主ですが、たまにちょっとややこしい内容を書かねばならない時があります。
以前であれば「こちらの真意が伝わればよし!」という心意気で、多少の英語の誤りは「日本人だもの」と見切って出していたのですが、最近はちょっとChatGPT先輩に聞いてみるか、と。

そうすると、秒でつるっとした文章に書き替えてくれるわけですよ。
「ああ、こういう言い回しもあるのかー」と勉強にもなるわけですが、こんな無味無臭のメールを送るのが癖になってはよくない、と今回の文書を読んで反省しました。

AIはツールとしてはこれからますます重用されていくのだと思いますが、どうやってどこまで使うのか、というところは人間のセンスが問われるような気がしています。


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